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優生手術強制問題とは

旧優生保護法とは

 1948年に成立した旧優生保護法には、「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」という目的が掲げられていました。ナチス・ドイツの断種法をモデルとした戦前の国民優生法の延長線上で、戦後、この法律が作られました。

 旧優生保護法下では、「遺伝性精神病」や「遺伝性精神薄弱」、「遺伝性身体疾患」(第4条)、非遺伝性の「精神病又は精神薄弱」(第12条)などを理由として、都道府県優生保護審査会の審査を経れば本人の同意がなくとも、生殖を不能とする「優生手術」を受けさせることが認められていました。

被害の実態

 

 1949年から1996年までの間に本人の同意なく行われた優生手術は全国で約1万6500人に上り、その7割弱が女性でした。手術の対象に年齢制限はなく、最年少は9歳の女児でした。

​ 本人の意思に反して手術を行うための「強制の方法」として「身体の拘束」や「麻酔薬使用」、「欺罔」(ぎもう)といった手段が認められており、飯塚淳子さん(仮名)は16歳の時、何も知らされないまま連れていかれた病院で麻酔を打たれ、優生手術を受けさせられました。また、旧優生保護法にすら違反するレントゲン照射や子宮嫡出が、「月経介助が大変」という理由で行われていた実態などもあります。

国は補償措置を講じず

 

 障害者団体や女性団体、そして国際社会から強い批判を浴びた旧優生保護法は、1996年に母体保護法へ改正され、優生条項は削除されました。優生手術は、子どもを産むか生まないかの選択の自由(「リプロダクティブ・ライツ」)を侵害し、平等原則にも反するものでした。

 しかし国は、明らかな人権侵害にもかかわらず、当時は合法であったとして実態調査や補償措置を何ら講じていません。これは、1975年まで不妊手術が合法化されていたスウェーデンが、1997年に社会的な問題となったことを機に、1999年に補償を実現したことと対照的です。

宮城県での「精神薄弱児福祉協会」の設立総会(初出:河北新報1957年2月13日付朝刊掲載の写真、著作権切れ)

宮城県での手術件数は全国で2番目の多さ

 

​ 記録に残っている中で、宮城県で行われた本人の同意のない優生手術は1406件に上り、これは北海道の2593件に次いで全国2番目の多さです。

 1962年の宮城県議会では、旧社会党系県議が「民族素質の劣悪化防止の立場から」優生手術の強化を求め、当時の県衛生部長が推進を約束していました。さらに、1957年に宮城県の有力者が集結し、「宮城県百年の大計」として、優生手術の徹底のために協会を設立していたことも明らかになっています。

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